自己紹介 「勝越の聖書通読ノートへようこそ!のページ」から


 

はじめまして、勝越常生です。私が「聖書を一日一笑一節読んで笑いましょう」と言ったら、真面目な方からお叱りに受けられるかもしれません。でも、今、人類は本当の意味で喜び、平安(シャローム)を伴った真の「笑い」というものを持つ必要があるのではないかと、思います。地球規模で人々の愛が冷え込み、国際間の争いの噂が絶えません。また、いのちの尊厳が失われつつあるように感じざるを得ません。

 

現在の国際問題にしろ、社会問題や個人生活の問題 にしろ、これらはすでに数千年前から聖書が預言していました。特に国際間の問題の図式が私たちが思っている以上に、年を追うごとに預言どおりにすなわち、聖書の論理で動いていると言っても過言ではないのです。

 

聖書を読み始めて三十年になりますが、上記のことを気づかせていただいたのは、2011年頃でした。東京在住のある姉妹が勝越宅に来て頂いて「ヨハネの黙示録」を中心に終末論についてわかりやすく、説明していただいたのがきっかけです。その後、2015年頃までこの姉妹の学び会をいろいろな所で開催し、ともに牧師や兄姉たちが学びあいました。私自身も聖書理解が少しずつ深まり、聖書を読むのが楽しくなりました。また、イスラエルを中心に見ることの重要性を感じざるを得なくなり、とうとう2016年には、聖書の舞台であるイスラエルに旅をしました。

 

「笑い」について少し、話をもどします。聖書を読み始めた二十代の後半の若き日、私は当時、さまざまな聖書のメッセージを電話のテレホンサービスでよく、聞いていました。特に大分県の教会で牧師をしておられた釘宮義人先生のメッセージでした。釘宮義人牧師のメッセージは大きな笑い「ワッハハ、ワッハハ・・・」から始まりました。その「笑い」声だけで力を得て、翌日の仕事に向かっておりました。

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書には、キリストが笑ったという表現の記述は出てきません。しかし、公生涯を歩まれたイエス様は弟子たちや病人たち、そして罪にもまれた人々に対して、慈しみと権威ある「笑い」を向けられ、励ましこともあるのではないかと想像します。それは喜びと悲しみをも含まれています。そうでなければ、実に多くの人々を導くのは難しかったと思います。

 

また、その聖なる「笑い」は私たちの人生に不法侵入し、苦しめてきたきたサタン(悪魔)、悪霊たちに向けられたものです。彼らはすでに敗北者です。なぜなら、イエス・キリストは十字架の死と復活によって彼らに対して完全に勝利されました。ですから、私たちは主イエス・キリストの御名と十字架上で流された主イエスの尊い血潮によって彼らに対して「笑い」飛ばすことができます。

 

そのような思いで日々、一日に一章ずつの目安で聖書通読ノートを記していきます。なお、この「一日一笑一節」は「一日一勝一節」という願いと宣言でもあります。また、聖書の言葉は私たちに生き抜く力を与えてくれます。(言葉の理解や表現にも限りがありますが、霊的な食べ物である御言葉を私なりによく咀嚼して表していきます。)肩の力を抜いて「ワッハハ、ワッハハ・・・」と笑いながら、日々、聖書の御言葉の剣を握り、共に勝利していきましょう。よろしくお付き合い下さい。


私の証 「あなたは高価で尊い存在です」

「私の生い立ち」

私は昭和38年(1963年)に一卵性双生児の兄として生まれました。二人とも未熟児で早産でしたので保育器が必要でした。当時の周産期医療は保育器にどの程度の割合の酸素を保育器に入れればいいのか、わからない時代でした。ですから、未熟児網膜症の発症がめずらしくありませんでした。私の場合、目は守られましたが、黄疸が強く、輸血交換が必要かどうかということでした。弟の二郎は残念ながら四日目に亡くなりました。

 

私はこの重症黄疸のために脳性麻痺になり、軽い言語障害と四肢の肢体不自由があります。障害を持った子どもにとって大切なことは、機能回復訓練(療育)です。

 

私は両親から普通の人のように生活ができるようになることを、いつも言われて育ちました。父の転勤で小学二年生のときに東京の養護学校(今は特別支援学校と言いますが)しました。そこで出会った言語療法士が、私の何気ないしぐさで聴覚に障害があることを発見し、耳鼻科医を紹介してくれました。結果的には感音性の高度難聴と診断されました。それから私に対する療育方針は変わりました。補聴器をはめての言葉の特訓です。これは小学五年生まで続きました。この言語療法士との出会いが私の職業選択の原体験となり、のちに作業療法士の道へと歩みはじめます。

 

「作業療法士養成校の入学と挫折」

障害者にとって高等教育を受けるのは壁にぶちあたることが多いものです。講義の際はクラスメートの横に座って、クラスメートのノートを見ながら受けました。また、もう一つの関門がありました。それは実技です。細かい手の動作がうまく、できないために、陶芸、織物といった手工芸の科目の単位が取れずに学内留年を二年してしまいました。

 

「教会へ駆け込み寺のように入る」

退学寸前までいった私は下宿の近くにあった教会に、駆け込み寺のように飛び込む心境で入りました。私は二郎に代わっておれば良かったのに思うようになっていたわけです。人生の目標は普通の人のように自立することに置いていたのですが、もう、通用しなくなりました。

 

しかし、教会では次のような聖書の言葉を教えられました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

エス様はそのような目で私を愛してくださり、私の健常者に対する妬み、憎しみの罪や自分の人生に対するのろいの罪のために十字架の上で死んでくださいました。三日目に復活され、死に勝利してくださいました。この方を信じるだけで永遠のいのちをいただき、その後、私は無事に卒業でき、作業療法士になりました。自立し、結婚もできたのです。

 

あなたも高価で尊い存在です。イエス様はあなたを愛してくださっています。ぜひ、お近くの教会を探されて飛び込んでみてください。


参考までに・・教会の探し方

まず、聖書を正統的に正しく、教えている教会を探してみてください。

少なくとも使徒信条を告白する教会が最低絶対条件で、聖書を使用していても使徒信条をを告白しないところは避けてください。聖書は神のことばと信じ、福音を純粋に伝えている教会を探してください。聖書の御言葉はただの昔話ではなく、今も生きていることを強調しするぎことはないでしょう。

 

教会の礼拝によっては静かな讃美歌の中でもたれるところもありますし、元気なゴスペル音楽のようなワーシップソングを使用して礼拝をもたれてところもあります。いくつかの教会の礼拝に参加されれば、自分にあう教会が見つかると思います。また、教会の建物の形態はさまざまで、自宅のような家の教会(ハウスチャーチ)のところもあります。

 

また、インターネットでも教会の礼拝の様子が放映していることもありますので、参考になるでしょう。