人は塵で造られ、命の息(聖霊)をその鼻に吹き入れられて生きる者となった

2:7 主なる神は土のちりで人を造り、/命の息をその鼻に吹きいれられた。

   /そこで人は生きた者となった。

創世記2章7節で再度、人の創造のものがたりが出てきます。これは1章で記された内容をより、具体的に書かれたものとなっています。KJVの英訳聖書では次のように訳されています。

 

2:7And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.

私訳すると次のようになります。

「主である神は土の塵から人を造り、いのちの息を吹き入れられて、人は生きた魂(たましい)となりまし 

 た。」

 

この聖句は三つの部分に分けて見ていきます。

 ①主なる神は土のちりで人を造り、/・・・からだの部分です。

 ②命の息をその鼻に吹きいれられた。/ ・・・「息」は聖書ではを意味します。

 ③そこで人は生きた者となった。・・・「生きた者」はKJVのように「生きた」になったわけです。

ある方は、このように言っています。「人は魂を所有し、霊を入れている体です。」

 

参考までにⅠテサロニケ5章23節を併記します。(ここでは、からだ、魂、霊について説明するため、この聖句の中にあるイエス・キリストの再臨については触れません。)

 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も

 魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非の

 うちどころのないものとしてくださいますように。(  Ⅰテサロニケ5章23節 新共同訳)

聖書では、「人」は三つの部分から構成されていると説明しています。「からだ」、「魂(たましい)」「霊」の各部分です。です。

 

「からだ」は各器官(目、耳、舌、肢体などと言った感覚器官、筋骨格系、神経系、様々な臓器器官)です。この「からだ」を使って、行動します。目に見える部分です。

それに対して、「魂(たましい)」と「霊」の部分は、目には、見えませんが、次のように聖書はとらえています。

「魂(たましい)」は思考・意志・感情などといった人格的な部分(心)を形成する部分にあたります。

「霊」はいのちの部分です。リンゴの皮が「からだ」としたら、実は「魂」の部分で、「霊」はリンゴの中心の種子周辺の部分にあたります。

 

さて、ここで、もう一度、リンゴをイメージしてください。スーパーで買ってきたリンゴをそのまま、何か月も放置しておいたら、どうなるでしょうか。腐敗が始まります。つまり、腐り始めます。では、どこから腐り始めるのでしょうか。リンゴの中心のあたり、種子周辺からです。つまり、「霊」の部分から傷み始めます。神様(創造主)からの霊的養分供給が途絶えると、人は「霊」の部分が傷つき、痛むのです。いわゆるSpiritual Painです。霊が痛むと、魂の部分にもからだの部分にも影響します。からだや魂が生きていても、心の中に空洞ができ、完全に満たされません。

 

そのような心の空洞の中に、人は偶像を造り、偶像に頼り、偶像で埋めよううとします。また、ここで言う偶像とは単に木や石で目に見える形で造られたものだけではなく、目に見えない偶像も含まれます。それは、この世の時代の価値観、前世代の親の不適切な言動と価値観、自分自身が造った不健康な価値観です。結果的に 薬物、お金、財産、名誉、異性、仕事などで過剰に依存して満たそうとします。しかし、これらにもので心は満たされません。ただただ、虚しくなり、さらに求めるような負のスパイラルが起こります。その時、人の心を破壊しようとする、心の闇の世界が働きます。すなわち、その心の中の隙間にサタンが入り、人を失望にさせたり、サタンがその人について神に訴えたり、告白し、落しめようとする霊的な働きです。

 

この霊的養分補給が困難にしたのは、神(創造主)と私たちの間にある断絶です。この断絶された通り管に障壁(バリヤー)が生じたのです。この障壁(バリヤー)を打ち破るためにイエス・キリストの十字架で私たちのために尊い血潮を流されました。この血潮には、暖かい「いのち」そのものです。二千年前、御子イエス様をこの世に遣わした父なる神の私たちに対する愛です。このイエス・キリストの打たれた傷によって私たちは罪赦され、癒やされ、自由にされました。イエス・キリストは罪の奴隷から私たちは解放され、神様との間にあったバリヤーは取り除かれました。私たちは神とつながることができたのです。

 

今、イエス様はこの世にはいません。死んで葬られ、復活し、天に昇られ、天の父なる神様の右の御座に座っておられます。そこから、イエス様が約束された御霊、聖霊をこの地上に送っていただきました。聖霊様は、イエス・キリストを信じる者の中に住んでくださいます。私たち、キリスト者はそのことを共通にして認識し、信じています。筆者はことに、この聖霊の働きをとても重視しているペンテコステ信仰を持っています。それは「イエスを救い主、私の主です」と告白できるのは聖霊様の働きだからです。

 

 あなた がた に 次 の こと を 教え て おき ます。 神 の 御霊 によって 語る 者 は だれ も「 イエス は、 のろわ

 れよ」 と 言う こと は なく、 また、 聖霊 による ので なけれ ば、 だれ も「 イエス は 主 です」 と 言う こと

 は でき ませ ん。(Ⅰコリント12章3節 新改訳2017)

 

また、さらに聖書は黙示録3章で私たちに次のようにも約束しています。

  

  見よ。わたし(イエス・キリスト)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあける

  なら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

                                    (黙示録3章20節 新改訳)

 

上記の「彼」とは私とあなたのことです。私たちの心の中の戸扉を開け、イエス様をお迎えし、心の中の空洞にイエス様の十字架を置くのなら、この世にない平安が与えられると約束しています。痛み、悲しみ、苦々しい思い、理不尽な事柄などをイエス様の十字架のところに持って行き、ささげてください。キリストの御霊である聖霊が働き、は取り扱い、応答してくださいます。なぜなら聖霊はパラクレース(助け主、援助者、とりなし手)でもあるからです。

 

 わたし(イエス) が 父 に お願い する と、 父 は もう 一人 の 助け 主 を お 与え くだ さり、 その 助け 主 が

 いつ までも、 あなた が た とともに いる よう に し て ください ます。 この 方 (聖霊)は 真理 の 御霊 で

 す。

 世 は この 方 (聖霊)を 見る こと も 知る こと も ない ので、 受け入れる こと が でき ませ ん。

 あなた がた は、この(聖霊) は あなた が た とともに おら れ、 また、 あなた がた の うち に おら れる よ

 う に なる の です。  わたし (イエス)は、 あなた がた を 捨て て 孤児 には し ませ ん。 あなた がた の とこ

 ろ に 戻っ て 来ます。                 (ヨハネの福音書14章16~18節 新改訳2017)

 

 助け 主、 すなわち、 父 が わたし (イエス)の 名 によってによって お 遣わし に なる 聖霊 は、 あなた がた

 に すべて の こと を 教え、 わたし が あなた がた に 話し た すべて の こと を 思い起こさ せ て ください ま

 す。  わたし は あなた がた に 平安 を 残し ます。 わたし の 平安 を 与え ます。 わたし は、 世 が 与える のと

 同じ よう には 与え ませ ん。 あなた がた は 心 を 騒がせ てはなり ませ ん。 ひるん ではなり ませ ん。

                            (ヨハネの福音書14章26~28節 新改訳2017)